【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
|
|
JR芸備線「東城駅」から南西へ約900m。東条駅南約500mで成羽川を国道314号で西へ渡り、200m先突き当りを右折します。200m程北上した歩道橋手前に城の案内があり、ここが登城口で、付近の余白に駐車しました。 |
【感想・メモ】 |
|
歩道橋手前から階段を上がると世直神社があり、この神社南西の城山が城跡で、神社裏手の登城道に石碑があります。そこから5分程登ると正面に石垣が見えますが、かなり藪に埋もれています。その少し上がカヤの平で、北側に土塁が、西には石組みの井戸と説明板があります。この西上がケヤキが平で、西側の土塁が立派です。ここから桝形に登ると太鼓の平で北側に土塁があり、その西に二郭、主郭(常の丸)と続きます。二郭は北に土塁、中央付近に築山、主郭に面して堀のような凹みがあり、主郭は南東に桝形虎口があり、西よりに井戸、西端には周囲を石垣で固めた天守台があります。主郭西には五重堀切があり、北斜面には畝状竪堀も見られます。この他に南東尾根や南尾根にも郭が配置されているようですが、藪のため未確認です。 |
【歴史】 |
大永・享禄年間(1521-32)頃、宮氏六代・景友が築城したといわれ、本拠とした。七代・高盛は勢力を伸ばし、天文2年(1533)西城町入江に大富山城を築いて本拠を西へ移し、五品嶽城は家臣の渡辺七郎に守らせた。以後、この城を東城、大富山城を西城と呼んだ。天正19年(1591)、宮氏が毛利氏の命で出雲へ転出した後は石見国から佐波越後守広忠が入城したが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦後は毛利氏に従って萩へ移った。その後、芸備の太守となった福島正則は三家老の一人、長尾隼人正一勝を東城城主に任命し、備中・伯耆の国境守備に当らせた。しかし、元和元年(1619)福島正則が改易になると、長尾氏も津山に移り、城は廃城となった。 |
【参考資料】 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |