滝山城 |
別名 | 亀穴城 |
所在地 | 愛知県岡崎市(額田町)宮崎字亀穴 |
遺構等 | 曲輪、堀切、碑、説明板 |
現状 | 山林 登城口から南の郭まで約40分 |
築城年 | 永禄年間(1558-70) |
築城者 | 奥平貞勝 |
歴代城主 | 奥平 |
形式 | 山城(比240m) |
訪城日 | 2007/2/3 |
たきやまじょう |
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宮崎神社北側の「明見集会所」北側が登城口(城跡の南西から登る)。集会所で道が行き止まりになるので、集会所か神社の脇に駐車可能。また、宮崎神社へと左折した所から更に県道37号を700m程北東へ進んだ道路沿い左手に城址碑と説明板があります。 | |||||||
【感想・メモ】 | |||||||
集会所の北側からすぐ北へ溝を飛び越え北へ進むと道があるのですが、分かりにくい場合は、集会所の右端(東)から北へと山へ登ります。そのまま尾根をひたすら登ると迷わず城跡に至ります。30分程で山腹の削平に着き、そこから10分程で南の郭に着きます。ここには城址碑があり万足平が望めますが、アンテナが散在していました。そこから谷を隔てながら北へ郭が3つあり、今度は東へ向かって郭があります。一番東の郭の先端には堀切が2本あり、2つ目の堀切の方が深く、空堀跡の碑があります。どの郭も削平が甘く自然地形に近い状態です。城域がかなり広く、谷を隔てて郭が離れてあるので、アップダウンを繰り返し結構しんどいです。集会所の前には奥平貞勝の墓があります。 | |||||||
【歴史】 | |||||||
永禄年間(1558-70)、奥平貞勝が築城し、武田氏に属した。天正元年(1573)、次の貞能は子の信昌と共に武田氏から離反し、作手の亀山城から退却して滝山城へ立て篭もった。怒った武田軍は5千の兵(ここから万足平の地名がついたという)を率いて城に攻め寄せたが、滝山城が天然の要害だったのに加え、奥平氏の援軍として徳川軍が駆け付けたため、武田軍は退却した。 | |||||||
県道沿いの城址碑と説明板 |
滝山城縄張図 原図:奥田敏春氏 愛知県中世城館跡調査報告書U(西三河地区)より |
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南の郭の城址碑 |
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