永正2年(1505)、三河守護代として野田に長く居た冨永直郷の後任として、田峯菅沼氏・定忠の三男・定則がこの地に入った。これが野田菅沼氏の始まりである。二代目・定村の頃、作手の奥平氏、田峯・長篠の菅沼氏が今川方から織田方へ寝返ったたため、今川方の定村は奥平貞勝を攻めて勝利するも、定村は戦死する。次に子の定盈が城主となり、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が死ぬと、松平氏に属した。永禄4年、勢力回復を狙う今川勢は氏真が吉田城代・大原資良を将として野田城を攻めた。定盈は勝ち目がないと見て野田城を開城し、八名西郷氏に身を寄せたが、翌年、西郷氏の協力を得て野田城を奪回した。元亀2年(1571)、三河に進出してきた武田信玄が各地の城砦を落として野田城へも迫ったが、その時も定盈は戦わずに西郷氏に身を寄せた。信玄が甲斐に戻ると、定盈も城へ戻り、この頃、城を大幅に堅固なものへと改修した。天正元年(1573)、上洛を狙う信玄が再び三河へ進出し、定盈が居る野田城を包囲した。城兵約500人に対し、武田勢は2万5千で、しかも周囲の菅沼・奥平氏は既に武田に属し、家康も吉田に退いて孤立無援であった。篭城に対して信玄は水を絶つ戦略を取り、1ヶ月あまり耐え抜いた後、開城させたが、信玄は病気となり甲斐へ戻る途中に死去した。 |