城跡の地図
長沢古城
長沢保育園の奥に、井戸がありましたが、これは完全に周囲をコンクリートで固められ、上からはフェンスが張り巡らされて、中が全く見えませんでした。また、その奥のフェンス越しに、アスレチックの遊具があるのですが、ここは、小学校側から入る事ができます。このアスレチック遊具がある所に、「長沢城門跡」の石碑もありました。ここには、桃の花も咲いていて、ちょっと見とれていました。城跡は国道1号で分断されてしまったため、1号線の北側(1号沿い)にも碑や井戸があり雰囲気を味わえます。古城団地のところにも城址碑があります。
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別名 桜ケ城
所在地 豊川市(音羽町)長沢町古城
遺構等 井戸、碑、説明板
現状 長沢小学校、長沢保育園、宅地
築城年 長禄2(1458)
築城者 長沢松平氏
歴代城主 長沢松平
形式 平山城
訪城日 2003/4/6
【道案内】

ながさわこじょう
【歴史】
名鉄名古屋本線「名電長沢駅」から南東へ約300mの長沢小学校及び、その裏手(北)の長沢保育園辺りから国道1号を越えた北側の古城団地付近が城。

【感想・メモ】
長録2年(1457)、富田左近義増の子・長沢四郎が築城した。応仁の乱(1467)頃、諸国が群雄割拠していたが、西三河は松平信光が岩津城を拠点に掌握し、東三河へ進出しようと長沢を攻めてきた。信光は夜襲で城を奪い、子の親則に与えた。親則が長沢松平氏の祖となり5代目・親広と続いたが、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで松平元康に仕え子の政忠とともに戦死した。6代目は孫の康忠が継ぎ、7代目・康直のとき、天正18年(1590)小田原の陣で家康に従い戦功をあげ、武蔵国深谷城1万石をも領した。元和元年(1615)、大阪夏の陣の時、家康の子・松千代の弟・忠輝が城主だったが、忠輝を将軍にしようとする動きがあり(忠輝の妻は伊達政宗の娘)、家康への反抗として出陣をわざと遅らせた。翌年、お家断絶となり、長沢松平家は滅んだ。