長沼城
別名 千代城、牛ヶ城
所在地 須賀川市長沼字殿町
遺構等 曲輪、土塁、横堀、竪掘、石垣、碑、説明板
現状 長沼小学校背後の山
築城年 南北朝時代
築城者 長沼氏
歴代城主 長沼、葦名、島津、玉井
形式 山城(比39m)
訪城日 2006/5/1
【道案内】


【感想・メモ】
ながぬまじょう
【歴史】
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国道118号で須賀川市街から羽鳥湖方面へ西進した場合、左手に「長沼中学校」を過ぎ、1.5km程西進して右折し、国道118号から外れます。700m程進んで右折し、500m程北上すると左手に「長沼小学校」があります。この小学校を過ぎてすぐ左手の山(小学校のすぐ北側の山)が城跡で、登リ口手前に無料駐車場が完備されています。
駐車場付近に城址碑や説明板があります。登っていくと細長い曲輪にテーブルとイスが置いてあり、ちょっとおしゃれな雰囲気で、主郭の高い切岸がカッコいいです。主郭は広く、稲荷社がありました。土塁には石積みがみられます。裏手へ下り、堀切を越えたら立派な石垣がありました。あちこち崩れて修復中のようです。南帯曲輪にも石積みがあり、その前に水仙の花が綺麗に咲いていました。全体的に見やすく、遺構もよく残っていて楽しめるお城です。
南北朝時代、長沼氏が築城したといわれる。長沼氏は、源頼朝の奥州征伐の軍功で長沼を領した小山朝政の子が、長沼氏と称した。戦国時代、岩代と会津の境目で要衝の地であった長沼めぐって伊達・二階堂・芦名氏が衝突したが、永禄9年(1566)、芦名領となり芦名氏の家臣・新国貞道が守備した。しかし、芦名氏滅亡後は伊達氏に属し、一時蒲生郷安・主計が城主となった。慶長3年(1598)、今度は上杉領となり、関ヶ原の合戦で上杉軍の前線基地となった。慶長6年、再び蒲生領となったが、元和元年(1615)、一国一城令により廃城となった。
城跡の地図