【道案内】 |
城跡の地図 |
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JR水郡線「磐城棚倉駅」から北北西へ約800m。磐城棚倉駅西方の県道177号(途中から県道25号)で800m程北上し左折します(道路に「赤館公園」・「赤館旅館」の看板有)。道なりに坂を上がっていくと山頂まで車で上がれ、山頂の赤館公園が館跡です。 |
【感想・メモ】 |
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主郭は山頂の公園ですがあまり遺構が見られません。縄張図付きの説明板を見ると車で上がってきた道路の脇等に遺構があるようで、歩いてみたら竪堀がよく分かりました。 |
【歴史】 |
鎌倉初期この赤館は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以降白川結城氏の直轄領地となった。永正10年(1510)佐竹氏は白川結城氏の依上保を支配し、やがて東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。元亀2年(1571)白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び南転した。天正3年(1575)佐竹は前年に続き赤館を攻めたが、蘆品・結城連合軍が撃退する。天正18年、伊達政宗は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙したが、同年秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。徳川の天下になると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。慶長14年(1609)立花宗茂が5万石赤館城主となり、元和8年(1622)丹波長重が5万石赤館城主となり、現在の地に平地城を築城しはじめ、以降の赤館は廃棄されたが、長重は白河10万石に転封となった。寛永4年(1627)内藤信照が5万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。(現地説明板より) |
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