東名高速「牧之原SA」から北へ約2km。県道233号沿いに案内が出ています。北東麓にトイレが設置された駐車場(4〜5台分)があり、その少し東には広大な駐車場があります。ここから茶畑を見ながら登ります。
【感想・メモ】
城跡は整備され、三の曲輪へ入ると土塁が目に飛び込んできます。二の曲輪には礎石建物や掘立柱建物の説明と簡単な復元があり、主郭にも土塁があって城址碑や説明板が設置されています。この東にある東尾根曲輪の先では小規模ながら連続堀切が見られ、南曲輪にも土塁があったりと遺構を楽しめます。
【歴史】
勝間田氏は、この地方を本拠とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府のご家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌集」を編纂している。元弘の乱(1331)には、河内(大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦した。室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1399)や永享の乱(1439)に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立、今川義忠の猛攻の前に文明8年(1476)遂に落城し、一族は四散した。応永年間に勝間田定長が築城したといわれるこの城は、牧ノ原台地に連なる尾根を巧みに利用し、南東部の尾根には田の城跡に例を見ない鋸状の堀切が残っている。文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見あたらないが、遺構からはその後手が加えられた形跡が認められる。
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