JR高徳線「引田駅」から北北東へ約1.2kmの城山が城。引田港の北、「田ノ浦キャンプ場」方面へ北上したすぐ右手(城の南西麓)が登城口で、標柱と縄張図付き説明板、駐車場があります。登城口は他に2箇所あり、田ノ浦キャンプ場やキャンプ場駐車場の南からだと北郭に取り付きます。 |
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【感想・メモ】 |
西の郭櫓跡には方形の石垣が、南の郭南西側面には石塁があり、北の郭西面の高石垣は一番見応えがありますが、はらんだり崩れかけています。東の郭にも石垣が若干残り、灯台が見下ろせます。城内の各所で海の景色が楽しめ、東の郭〜灯台〜化粧池〜南の郭〜西の郭と一周でき、北の郭から北尾根を進んだ次のピーク・丹後丸は広い平地がありましたがこれといった遺構はありませんでした。 |
【歴史】 |
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戦国期、寒川氏に属する四宮右近が居城した。元亀元年(1570)三好氏に攻められ寒川氏は城を引き渡した。長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、三好氏は羽柴秀吉に援軍を要請した。天正11年(1583)仙石秀久が入城したが、翌年、秀久は長宗我部軍に引田表で敗れた。しかし、秀吉の四国平定後に再び秀久が入城した。天正15年(1587)、生駒親正が讃岐一国を領して入ったが、讃岐の東偏ということで聖通寺城に移った。元和元年(1615)一国一城令で廃城となった。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |
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