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桶狭間の戦い
その他史跡


熱田神宮 信長塀
地図

永禄3年(1560)織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奏し大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大塀の一つといわれている。(現地説明板より)
義元本陣(豊明)
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高徳院境内に義元本陣の石碑があります。
毎年6月第1土日は「桶狭間古戦場まつり」が行なわれ、日曜日には、このお寺の一番高い位置にある駐車場で合戦再現劇が行なわれています。
義元戦死の地(豊明)
地図   桶狭間古戦場公園内

今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。明和8年(1771)12月に鳴海下郷家の出資により建碑された。
義元墓1(豊明)
地図   桶狭間古戦場公園内

以前、ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治9年5月に、木の墓を建てた。
義元墓2(豊明)
地図  高徳院への階段脇

義元公の300忌(萬延元年)に建てられた。
戦人塚
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桶狭間の戦いにおける戦死者を曹源寺二世・快翁龍喜和尚が明窓に命じ埋葬供養した塚である。
義元首実験(長福寺)
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長福寺の境内にある大杉付近で林阿弥が首検証を命じられた。
長福寺は天文7年(1538)善空南立上人によって創建された。桶狭間合戦の際、上人は今川勢が当地に着くと聞き、住民の先導者となって酒食を提供し労をねぎらった。本尊の阿弥陀如来像は今川義元の茶坊主・林阿弥が義元公供養のために納めたものと伝えられる。寺宝に義元とその家老松井宗信の木造・合戦記を所蔵し、境内に合戦供養塔もある。
高根山
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桶狭間合戦の際、今川軍の戦陣として松井宗信率いる約1000人が着陣した。この辺りでは一番高く(標高50m)、鳴海城と織田軍の善照寺砦や中島砦が一望できた。また、織田軍の別働隊で佐々政次、千秋季忠が率いる軍と激戦してこれを打ち破った。その間、信長が率いる本隊約2000の軍は、中島砦から北方に見える丘陵の狭間を抜けて密かに今川義元本隊が陣取る、桶狭間釜ヶ谷方面へ向かっていった。尚、南方の山続きで、幕山、巻山には今川軍の井伊直盛率いる約1500の兵が陣取っていた。
幕山
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幕山、巻山には今川軍の井伊直盛率いる約1500の兵が陣取っていました。南方にある小山が巻山です。
瀬名伊予守氏俊陣地 地図

永禄3年5月17日、今川義元の家臣・瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣し、村木(東浦)・追分(大府)・大高・鳴海方面の監視と、大将今川義元が19日に昼食する時の本陣を設営した。古伝によれば東西15m、南北38m位で、これより奥に位置します。
戦評の松
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桶狭間合戦の際、瀬名氏俊がこの松の根元に部将を集めて、戦いの評議をしたと伝えられています。
義元公本陣跡他(有松)
地図   有松桶狭間古戦場公園内
義元公本陣跡
義元公がこの田楽坪に本軍の休養を命じ、自ら大高・鳴海方面の戦況を質し敵将の首実験を行なった。

今川義元馬繋ぎのねず塚
この馬繋ぎのねず塚付近が本陣跡で、義元公終焉の地であると言い伝えられており、義元公の愛馬を繋いだねずの枯木が残っている。

その横に、「今川義元戦死之地」の石碑もあります。
七ツ塚
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今川義元を討ち取った織田信長は、直ちに全軍を釜ヶ谷に集めて勝鬨を上げ、今川方部将の首実験を行い、戦死者を葬るように村人へ命じて引き上げた。村人は山裾に沿って約50m間隔に7つの穴を一列に掘り、手厚く埋葬した。里人は七ツ塚、または石塚と称して、これを取り壊すとたたりがあり、命を失った者も居たとのことです。区画整理により塚の1つを残し、この地に統合して碑を建て追弔した。
仁井殿神社
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中島砦から戦勝祈願に信長が立ち寄ったと言い伝えのある神社。



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