城跡の地図
下山甲斐守城
城跡は北西から南東にかけて長く(約300m)、東側には名張川が流れています。適当に直登したら、いきなり主郭土塁上に出ました。伊賀独特の切り込んだ造りのため土塁がとても分厚く、南側は特に広く幅8〜9mもあり見張台のようです。狭い所でも幅2m程あり、周囲を巡る空堀を見下ろすとかなり高さがあります。主郭南東の空堀の先に堀切があり、更に先に少し削平が甘い曲輪、その南東に堀切があります。この堀切から更に30m程南東にも堀切があるのですが、木が密集していて分かりにくいです。主郭の北西にも空堀があり、その先が二郭、そこから20m程北西には東西100m程の堀があります。
【感想・メモ】

主郭から40m程南東にある堀切


【歴史】
別名 比奈知城
所在地 名張市下比奈知字兼前213
遺構等 曲輪、土塁、空堀
現状 山林
築城年 戦国時代
築城者 下山甲斐守
歴代城主 下山甲斐守
形式 丘城
訪城日 2008/2/2
【道案内】

しもやまかいのかみじょう
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比奈知小学校南側から県道691号を200m程西進して左折し、県道693号に入ります。300m程南下して名張川を渡り、80m程進んで左折します。120m程東進して左手の道へ入り坂を上がって行った正面の山が城跡です。坂を上がる手前の道路余白に駐車しました。
戦国時代、奈垣に勢力を誇っていた下山氏は、自領が神宮領だったため、伊勢国司北畠氏に仕えて勢力を拡大し、更に北方へ進出するためこの地に城を築いた。当時、下山氏は北畠氏の旗頭として全盛を誇っていた。天正4年(1576)下山甲斐守は具教を謀殺して国司の座についた織田信雄に味方し、天正6年、伊賀守護仁木友梅が土豪たちに信楽へ追い払われたのを見て、松ヶ島城に出向き信雄に伊賀統一を促した。しかし、翌天正7年9月、下山甲斐守の道案内で伊賀へ攻め入った約7千の織田勢は、伊賀土豪の反撃に遭い敗退した。(『日本城郭体系10』参照)