彦根城詳細 | 彦根城のページへ戻る | ||
佐和口多聞櫓(重文) 彦根城が完成した元和8年(1622)には建てられていた。明和4年(1767)城内で発生した火災で類焼し、明和6〜8年にかけ再建された。 |
佐和口 「いろは松」に沿った登城道の正面にあり、南の京橋口、西の船町口、北の長橋口と共に中堀に開く4つの門の1つ。 |
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馬屋(重文) 21頭の馬を収容でき、藩主などの馬を常備した。 |
表御殿 現在、彦根城博物館が建っている。 |
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登り石垣1 表門を入った左手にある。 |
天秤櫓(重文) 豊臣秀吉が創築した長浜城大手門移築と言われ、その前に堀切がある。幾度か修理を重ねたため、場所により石垣の積み方が違う。 |
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太鼓門櫓(重文) 本丸への最後の関門で、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしている。 |
着見台 かつて2階の着見櫓があった。 |
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天守(国宝) 本丸正面から 京極高次が築いた大津城天守を移築したと言われ、慶長11年(1606)完成した。 |
天守(西の丸から) |
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西の丸 本丸の北側に隣接する曲輪。 |
西の丸三重櫓 西の丸の西北隅に位置しており、小谷城天守を移築したと伝えられる。 |
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大堀切 西の丸と出曲輪の間にある大きな堀切で圧巻である。 |
出曲輪 西の丸から大堀切を隔てて北側にある曲輪。井戸もある。 |
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登り石垣2 出曲輪の東付近にあり、遊歩道から石垣や竪堀が確認できる。 |
山崎曲輪 一番北側にある曲輪で、土塁が巡っている。 |
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黒門 天守東にある出入口。 |
井伊直弼銅像 周囲は広場になっている。 |
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山崎門 山崎曲輪西側にある門(現在、閉鎖されている) |
登り石垣3 上からかなり長い登り石垣があり、見応えたっぷり。 |
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米蔵 幕府の預り米5万石を収める米蔵が17棟建っていた。築城当初は米蔵はなく、重臣の鈴木石見とその主馬が居住していたが、石見は後に水戸徳川家へ、主馬は直継公に従い安中へさった。現在は梅林となっている。 |
大手門 西側にある大手。ここから西へ行くと、キャッスルロードがある。 |
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長野伊豆屋敷 現在、高校が建っている。 |
西郷屋敷長屋門 内濠と中濠に囲まれたこの付近一帯は上級武士の屋敷があり、ここは西郷氏屋敷だった。長屋門は、寛保2年(1742)西隣の庵原家で建てられたものを、明治16年(1883)裁判所整備に伴い、現在の場所に移築されたと考えられる。 |
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脇家長屋 馬屋から西へ進んだ左手にあるなまこ壁の屋敷で、石碑がある。 |
鈴木屋敷長屋門 旧中濠に面したこの付近は、中級武士の屋敷があった。鈴木権十郎は禄高350石で大津蔵奉行であり、長屋門は文久2年(1862)建築である。 |
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木俣屋敷 佐和口門から入った右手にある屋敷で、石碑がある。 |
埋木舎 文化12年(1815)、11代藩主直中の十四男として井伊直弼は誕生した。5才で生母を、17才で父を失い、藩の掟で三百俵の捨扶持でここに移った。12代藩主で兄の直亮の嗣子となるまでの十代〜32才をここで過ごした。 |
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佐和山城門 キャッスルロードの宗安寺山門が佐和山城の城門と伝えられる。この寺の横には朝鮮通信使が出入りした黒門もあり、寺には木村重成の首塚がある。 |
池田屋長屋門 埋木舎から少し東にある長屋門。 |
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楽々園(槻御殿) 延宝5年(1677)四代藩主直興が着手し、2年後に下屋敷として完成した。槻御殿が正式名だが、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」から「楽々園」の名が有名になった。大老井伊直弼はここで生まれた。 |
玄宮園 大池泉回遊式の城郭庭園で、延宝5年(1677)四代井伊直興が造営した。近江八景や竹生島・沖の白石になぞらえて築かれ、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮からその名がついた。 |
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登り石垣
登り石垣