高鍋城
別名 財部城、舞鶴城
所在地 宮崎県高鍋町南高鍋
遺構等 曲輪、石垣、土塁、堀、政庁跡、説明板
現状 舞鶴公園
築城年 斉衡年間(854-57)
築城者 柏木左衛門尉
歴代城主 柏木、土持、伊東、島津、秋月
形式 平山城
訪城日 2006/11/20
公園に入ると二の丸で、ここの虎口石垣がカッコイイです。神社を通って階段を上がっていくと広い本丸で、政庁跡があります。ここは灯篭まつりでも有名なようで、あちこちに灯篭が置いてありました。政庁跡には説明板もありますが、この説明板の右手背後へ上がると、まだまだ曲輪があり、石垣も見られます。こちらが詰の丸です。曲輪には土塁も巡っていて、立派な石垣があったり、梅園となっている曲輪もありました。思った以上に登るので、ちょっと疲れましたが、麓から順番に色んな遺構が見られて楽しめます。
【歴史】
高鍋城はもと財部城と呼ばれ、柏木左衛門尉が築城した。斉衡年間(854-57)、土持氏が居城し城を補修して約600年支配した。長禄元年(1457)、日向に勢力を伸ばしてきた伊東氏の所領となり、日向国伊東氏48城の1つとして武将落合民部が城主となった。天正5年(1577)、伊東氏を破った島津氏が所有したが、天正15年、島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月、筑前秋月城主・秋月種実が3万石で日向に入った。種実は串間城に入城したが、種実の子・種長は財部城へ居城を移し、城を近世城郭へと改修した。寛文9年(1669)、三代種信も大改修をし、延宝元年(1673)完成した。その際、城の名を高鍋城と改めた。以後、種長から秋月氏が10代続き、明治を迎えた。

【感想・メモ】
高鍋町役場から南西へ約700mの城山(舞鶴公園)が城で、公園に無料駐車場が完備されています。
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城跡の地図
【道案内】
たかなべじょう