飫肥城
別名 舞鶴城
所在地 日南市飫肥
遺構等 復元櫓門、大手門、曲輪、石垣、城壁、堀、碑、説明板
現状 公園、資料館
築城年 天正15(1587)
築城者 伊東祐兵
歴代城主 伊東
形式 平山城
訪城日 2007/11/29
【道案内】 城跡の地図
JR日南線「飫肥駅」から西北西に約1.1km。飫肥小学校の西側が城址公園となっており、南側(「大手門」信号を北へ入ってすぐを左折)に「飫肥城観光駐車場」(無料)が完備されています。
【感想・メモ】
存在感のある大手門の前には立派な横堀があり、大手門から枡形を通る雰囲気がカッコいいです。二の丸には石垣だけでなく土塁もあります。資料館の北側の一段高い所が本丸で、1辺120m程もあり、土塁が残っています。また、松尾丸には書院造りの御殿が建てられています。「飫肥小学校」も城域と随分と広く、1kmx1.1kmもあった広大な城です。飫肥城付近は、明治維新後に藩主・伊東祐帰が居住した豫章館や藩校振徳堂などもある上、武家屋敷が良く残っていて城下町の雰囲気がとても良いです(小村寿太郎生家や伊東伝左衛門家もあります)。是非、お城だけでなく、城下町もゆっくり歩いてください。
【歴史】
正平年間(1346-70)、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が築城した。室町末期になると、工藤祐経の嫡子・祐時を祖とする伊東氏が日向で勢力を拡大し、土持氏を追いやった。長禄2年(1458)薩摩島津氏が伊東氏の南下に備え、島津氏一族で志布志城主の新納忠続を飫肥城に入城させた。以後、伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦が繰り広げられた。元亀3年(1572)伊東義祐は木崎原の合戦で島津勢に大敗し、天正5年(1577)島津氏に追われ、伊東氏は豊後の大友宗麟を頼って亡命した。しかし、天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後、伊東氏19代・祐兵が5万1千石を与えられ飫肥城主に返り咲いた。以後、祐兵を初代として伊東氏14代が続き明治を迎えた。貞享元年(1684)5代伊東祐実の時、大地震で飫肥城は損壊したため、大改修をを行い、元禄6年(1693)完成した。
大手門前の横堀 中世の本丸
おびじょう