真岡城/真岡陣屋 |
別名 | 芳賀城、舞か丘城 | ||
所在地 | 栃木県真岡市台町城内 | ||
遺構等 | 曲輪、碑、説明板 | ||
現状 | 真岡小学校、城山公園 | ||
築城年 | 天正5(1577) | ||
築城者 | 芳賀伊賀守高継 | ||
歴代城主 | 芳賀 | ||
形式 | 台城 | ||
訪城日 | 2009/6 | 感想 | △ |
真岡小学校や城山公園はちょっとした高台にあります。小学校の東側に堀と土塁が一部残っており、城山公園には陣屋の碑と説明板があります。また、城山公園東側の川沿いに高札場があり、そこにお城の説明も書いてありました。 |
真岡鉄道「真岡駅」から東北へ約400mの真岡小学校や城山公園一帯が城跡です。真岡小学校の南麓が水辺公園となっており、公園利用者用の無料駐車場が完備されています。 |
天正5年(1577)芳賀氏23代高継が上杉氏、北条氏の動きが活発化したため、より堅固な築城にせまられ、この真岡城を築いて御前城から移った。高継には男子がなく、天正13年宇都宮国綱の弟高武を養子として家督を継がせ隠退した。天正13年、北条氏直が大軍を率いて襲撃した際、高武は国綱の命を受け多功城を援助し、天正17年、国綱と謀ってかねてから北条氏に内通していた益子家宗を攻め滅ぼした。翌天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めに国綱の代理として芳賀勢を率いて参加し戦功を立てて領地を安堵された。また、文禄元年(1592)秀吉の朝鮮出兵の際、宇都宮勢の先陣の大将として出陣した。しかし、慶長2年(1597)国綱の改易により所領を没収され追放となった。その後、寛正9年(1797)江戸幕府の代官所が設置され明治維新まで続いた。(『とちぎの古城を歩く』塙静雄著 下野新聞社発行 参照) |
もおかじょう/もおかじんや |