川崎城
別名 塩谷城、蝸牛城
所在地 栃木県矢板市川崎反町
遺構等 曲輪、土塁、堀切、横堀、碑、説明板
現状 川崎城跡公園
築城年 正治・建仁年間(1199-1204)
築城者 塩谷朝業
歴代城主 塩谷氏
形式 山城(Pから比30m、標230m)
訪城日 2009/12 感想

本丸西北の空堀
城跡の地図
かわさきじょう
【道案内】
JR東北本線「矢板駅」から南南西へ約2.5km。東北自動車道のすぐ東にある川崎城跡公園が城で、公園に無料駐車場が2カ所完備されています。

【感想・メモ】
駐車場から2〜3分登ると本丸下の立派な空堀があります。本丸は綺麗に整備され、広くて眺望もよく、とても気持ちよいです。本丸の西北には土塁があり、その上に城址碑もあります。この北から西にかけて二の丸があり、その間の空堀も見事です。二の丸の北側は三の丸となり、この間の堀も素晴らしいですが、三の丸からは山林です。東北自動車道の西側も城域ですが、こちらは確認しませんでした。

【歴史】
平安末期から戦国時代にかけて塩谷地方の北西部を支配した「塩谷氏」の本拠地で、城域は南北約1500m、東西約340mに及ぶ。正治・建仁年間(1199-1204)宇都宮業綱の二男塩谷朝業が築城した。朝業は鎌倉幕府の御家人として力を発揮し、将軍実朝と和歌を通して親しくなり、中世文学史に残る歌集「信定法師集」を残している。応永30年(1423)塩谷教綱の時、支族の武茂持綱が宇都宮氏を継いだことを不満として持綱を討ち取ったことから、長禄2年(1458)教綱は宇都宮城内に誘われて殺害され、塩谷氏は断絶した。すると、宇都宮正綱の四男孝綱が塩谷氏を継いで再興し、孝綱の長子由綱(義孝)が川崎城主となった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東入部に伴い、由綱はこれに背いて奥州に逃れ、川崎城は御前原城と共に廃城となった。(現地説明板、『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行 参照)