榎本城
別名
所在地 栃木県大平町榎本・真弓
遺構等 土塁、横堀、碑、説明板
現状 田畑、林、宅地、社寺
築城年 永禄元(1558)
築城者 榎本高綱
歴代城主 榎本、本多
形式 平城
訪城日 2009/4 感想

法宣寺から西南約100m(だったと思う)に城址碑と説明板があります。この背後は藪になっていますが、土塁と横堀が残っています城址碑の真後ろに隠れるように説明板があるため、とても読みにくく、写真も斜めからしか撮れません。もうちょっと考えて建てて欲しかった。。。また、法宣寺から西南へ約600mにある大中寺には榎本城主や榎本藩主本多忠純のお墓があります。
【感想・メモ】

【道案内】
城跡の地図
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東武日光線「新大平下駅」から東南へ約3km、大平南中学校から東南へ約1km。大平南小学校西北で県道36号と県道252号が交差する「西水代」信号から1.5km程県道36号を東進して左折します。700m程北上すると左手に法宣寺があります。このお寺の西〜北にかけてが城跡です。
東は巴波川、杣行川、西は永野川が南流する要害の地にあり、東西613m、南北396mもの規模がある広大な城であった。永禄元年(1558)、小山氏の一族・榎本高綱が祇園城の出城として築城したと伝えられるが、既に弘治年間(1555-58)に城は存在した説や、小山高朝が築城し、二男の高綱が城主になったともいわれる。いずれにしても小田原北条氏の勢力に備えた。しかし、小山氏は間もなく北条氏に従い、永禄6年、上杉謙信による小山城攻略により榎本城も占領された。天正2年(1574)には北条氏政により占領されるなど、上杉氏と北条氏の覇権争いに翻弄された。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際は秀吉に降り、慶長8年(1603)まで結城領となった。その後廃城となったが、慶長10年本多忠純が2万8千石の城主として復活した。寛永16年(1639)本多氏は後継がなく断絶し、榎本城は廃城となった。(現地説明板参照)
【歴史】
えのもとじょう