赤見城
別名 町屋城
所在地 栃木県佐野市赤見町
遺構等 曲輪、土塁、横堀、碑、説明板
現状 赤見城保育園
築城年 安元元年(1175)
築城者 足利俊綱
歴代城主 足利氏、戸賀崎氏、佐野氏
形式 平城
訪城日 2010/6 感想

本丸西側の水堀

保育園の前に標柱と縄張図が刻まれた石碑があり、南東部が壊されているものの保育園を取り囲むように土塁と水堀が巡っています。また、西側は水堀が二重になっています。赤見城は本丸とその北東に北の丸、東に二の丸、南に三の丸、西に西の丸を配置し、各曲輪は水堀で囲まれ、東西約480m、南北約380mもの規模だったようです。
【感想・メモ】


【道案内】
城跡の地図
赤見小学校から西へ約500m。国道293号「駒場」信号を南東へ入り、600m程南東進して左折します。350m程東進した5本目の路地を左折し、150m程北上すると左手に「赤見城保育園」があります。ここが城跡で、付近の余白に駐車しました。
安元元年(1175)、藤原秀郷の子孫足利俊綱が築城を開始し、治承2年(1178)完成して居城したという。治承5年、志田義広が甥の源頼朝に背いて挙兵した際、俊綱は子忠綱と共に義広に応じたが敗れ、逃亡の途中、頼朝に内通していた家臣桐生六郎に殺害された。その後、建久元年(1190)戸賀崎義宗が城主となり城を再興して、戸賀崎氏が代々居城した。永禄2年(1559)義宗の子孫・赤見伊賀守は唐沢山城主佐野泰綱に背いたため、攻められ常陸へ逃げた。以後、慶長19年(1614)に佐野氏が改易されるまで佐野氏の支城となった。

(『とちぎの古城を歩く』塙静夫著 下野新聞社発行、『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 参照)
【歴史】
あかみじょう
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