馬加城 |
今では巨大なマンションが建ち、遺構はありません。享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改め、里名も馬加郷と改められたとの言い伝えがあるとのことです。 |
別名 | |||
所在地 | 千葉県千葉市花見川区幕張町3丁目 | ||
遺構等 | |||
現状 | 宅地 | ||
築城年 | 治承4年(1180) | ||
築城者 | 大須賀四郎胤信 | ||
歴代城主 | 大須賀氏、馬加氏 | ||
形式 | 平山城 | ||
訪城日 | 2010/2 | 感想 | × |
まくわりじょう |
JR・京成「幕張駅」から北へ約1km、「幕張本郷駅」から東南東へ約1.5km。京葉道路上り「幕張PA」の東約300mにある高台のマンションが城跡です。 |
治承4年(1180)、千葉介常胤の四男胤信がここ大須賀庄本郷に所領を分与され館を構えたのが始まりという。胤信はその後現在の下総町に移ったため千葉宗家が館を守るようになった。15世紀中頃、馬加康胤が館を修築して居住した。当時、関東の諸豪族は鎌倉公方足利成氏派と関東管領上杉勢とで対立し、千葉氏も馬加康胤、小弓城主・原胤房らは古河公方足利成氏方に、千葉宗家で亥鼻城主・千葉胤直は上杉方に分裂した。康正元年(1455)、馬加康胤は原胤房と呼応して亥鼻城に夜襲をかけ、千葉宗家は滅亡した。康胤は千葉宗家を継いだが、八代将軍足利義政による追討を受けた東常縁らに攻略され馬加城は落城し、康胤は自刃した。(『日本城郭大系』新人物往来社発行 参照) |