北生実城 |
上に京葉道路が走る国道16号から東へ入り、400m程東進すると県道66号に入ります。道路左手奥に「重俊院」を過ぎ、更に300m程東進した左手に「生実神社」があります。この付近一帯が城跡です。 |
生実神社の入口に説明板があります。社殿に向かって左手には、深い空堀があって素晴らしかったので、下りてみました。これだけでも残っていると嬉しいもんです。しかも、「旧生実城空堀」と刻まれた碑がいい感じ。主郭は生実神社の北西だったようで「本城公園」が主郭内にあるから行ってみましたが、普通の公園で、特に何もありませんでした。 |
別名 | 北小弓城、生実城 | ||
所在地 | 千葉県千葉市中央区生実町1551 | ||
遺構等 | 土塁、空堀、説明板 | ||
現状 | 生実神社一帯 | ||
築城年 | 天文7(1538) | ||
築城者 | 原胤清 | ||
歴代城主 | 原、森川 | ||
形式 | 平山城 | ||
訪城日 | 2005/7/30 | 感想 | ○ |
きたおゆみじょう |
天文7年(1538)、足利義明によりこの地を追われていた原胤清が、第一次国府台合戦に勝った北条氏綱の助力を得て復帰し築城した。永禄4年(1561)里見義弘の重臣・正木大膳亮時茂に攻められ北条氏を頼って逃げた。永禄7年、第二次国府台合戦で北条氏が勝利し、原胤貞は生実城を奪還した。元亀2年(1571)、生実城は里見氏の手に落ち、原胤栄は臼井に居城するようになる。天正18年(1590)秀吉の小田原征伐で北条氏が滅び、原胤栄も家康の家臣・酒井家次と野田十字ヶ原の戦いで戦死する。家康の関東入封後、生実は西郷孫九郎家員が30年間知行し、寛永4年(1627)森川出羽守重俊が生実藩1万石として入り、生実城内に陣屋を構えた後は、森川氏12代の陣屋として明治を迎えた。 |
空堀 |