源経基館
【道案内】
城跡の地図
JR高崎線「鴻巣駅」から西へ約800m。鴻巣高校のすぐ南にある「城山ふるさとの森」という史跡公園が館跡で、高校の西側の通りを南下すると分かりやすいです。
源経基は清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたるため六孫王と号し、源姓を賜って清和源氏の祖となった。承平8年(938)、経基は武蔵介として武蔵権守興世王と共に足立郡に巡検したが、その際、足立郡司武蔵武芝と紛争となり、興世王は付近の租穀を没収した。この騒乱の調停に平将門が介入し、将門は武芝と共に国府へ向かい和解した。しかし武芝の後陣らは和解を知らず、経基の営所を取り囲んだため、経基は将門が興世王と武芝に勧めて自分を滅ぼそうとしていると思い、天慶2年(939)京に帰り上奏した。朝廷は将門に謀反の意思が無いことを確認するも、経基は征夷大将軍藤原忠文に従って将門討伐に下ったが、途中で藤原秀郷や平貞盛らに将門は討伐されたことを知り帰京した。この乱後、経基は武蔵守となり、その子の満仲も武蔵権守に任じられ、この二人の代に清和源氏は武蔵国に勢力を延ばした。(現地説明板、『中世北武蔵の城』梅沢太久夫著、『日本城郭大系』新人物往来社発行 参照)
別名 箕田城、大間城、城山
所在地 埼玉県鴻巣市大間
遺構等 曲輪、土塁、横堀、碑、説明板
現状 城山ふるさとの森
築城年 平安時代
築城者 源経基
歴代城主 源氏
形式
訪城日 2010/1 感想
【感想・メモ】
高さ2mもある土塁が北〜東〜南の三方に巡り、その外側に空堀もあります。また、南東と北東には折れがあり、源経基の時代のものとは思えません。北側の土塁の一段高い所に「六孫王経基城址」の石碑があり、公園外側の西北隅に説明板もあります。

【歴史】
みなもとのつねもとやかた
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