城跡の地図
新井城
別名
所在地 神奈川県三浦市三崎町小網代
遺構等 曲輪、土塁、空堀、説明板
現状 油壺マリンパーク、東大臨海実験所
築城年 宝治元(1247)
築城者 三浦氏
歴代城主 三浦、北条
形式 平山城
訪城日 2000/8/15 感想
三浦半島へ観光旅行した際、油壷もフラフラと立ち寄ったら、城跡の説明板を見つけてびっくり!ここに新井城があったのかぁ。東大地震研究所の脇から油壺湾に臨むハイキングコースを行くと、土塁や空堀が少し見られるようですが、大部分は立入禁止らしい。この油壺は、城兵が流した血が海面に漂い、まるで油のようであった事からつけらたらしいです。
【感想・メモ】

【道案内】

あらいじょう
【歴史】
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県道26号「油つぼ入口」信号を北西へ入り、そのまま道なりに直進して「油壷マリンパーク」へ向かいます。このマリンパークは城跡ですが、左手に「油壷公園」を過ぎて少し行った「東大地震研究所」の入口脇を入っていくと、遺構が見られます。油壺マリンパーク入口の先を進むと(北)小網代湾に面した小高い場所に「三浦陸奥守義同(道寸)」の墓があります。
宝治元年(1247)、鎌倉幕府執権・北条時頼が三浦一族を滅ぼした「宝治合戦」で、三浦一族ながら時頼に与した佐原盛時が三浦半島南部を領有し、築城したといわれる。戦国初期、伊豆韮山城を本拠とする伊勢新九郎(北条早雲)が小田原城を奪取し、永正9年(1512)、古河公方家・山内上杉家の内紛に乗じ、扇谷上杉氏方で相模の最大勢力・三浦義同の岡崎城を急襲しこれも奪取した。義同は岡崎城から逃れ新井城、三崎城に篭城した。永正10年、早雲は三浦半島の付け根に糧道を断つため玉縄城を築き、次男・氏時を城主とした。永正13年、扇谷上杉朝興は三浦義同救援のため派兵したが、早雲の兵と対峙する事となり、三浦義同・義意父子救援に失敗した。そこで、義同は城門を開いて討って出たため、新井城は陥落し、義同・義意は自刃した。そして三浦氏は滅亡し、相模一国は北条氏が支配した。