太田金山城
城跡の主要部は復元整備され見やすいです。駐車場の上が西城で、東へと西矢倉台、物見台、馬場が続き、堀切や石敷通路、石垣虎口、岩堀切等が見られます。馬場の東に大堀切、月ノ池があり、石垣大手虎口が迫力あります。虎口を入ると一面の石と日の池の大きさに驚き、復元武器庫や休憩所からの眺望と見所盛り沢山です。主郭は神社が鎮座し、背後の天守曲輪裏馬場に石垣が残っています。この背後に大堀切があり、更に北には本城北端の看板がある堀切もあります。その少し先、右キャンプ場(1400m)に従い右手へ進むと坂中城(北城)ですが藪です。戻って、西城のすぐ西にある喰い違いは立派で、この空堀にも石が入っています。更に西の見附出丸には南土塁が復元され、堀切の先には城址碑が建つ出丸もあります。車で下山中、大手門石塁の碑があり、桜の井戸も見学しました。まだ各所に遺構があるようですがとても見切れません。
【歴史】
平安末期に新田氏がこの地に砦を築いていたようだが、新田義貞一族の滅亡と共に一時廃城となった。文明元年(1469)、新田一族・岩松家純が金山城を再築し、その後、新田氏重臣・横瀬氏が勢力を増した。横瀬氏は泰繁の時、新田昌純を殺し、泰繁の子・成繁の時に横瀬から由良と改姓し、両毛地方を征服し金山城全盛期をもたらした。金山城は、武田、北条、上杉、佐竹軍による攻撃に一度も落城せず、天下に名を知らしめた。天正12年(1584)、北条氏に捕われた由良成繁と、成繁の弟で館林城主長尾顕長の帰還を条件に城を開城し、以後北条氏が支配したが、天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅び、それに伴い金山城は廃城となった。
【感想・メモ】

日の池

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本丸北方の堀切

物見台下虎口

東武鉄道「太田駅」から北へ約2.5km。県道321号で太田市街から北上した金山自然公園一帯が城跡で、山頂近くに広い駐車場があります。

本丸残存石垣

城跡の地図
【道案内】
別名
所在地 群馬県太田市金山町
遺構等 曲輪、土塁、堀切、石垣、土橋、横堀、虎口、碑、説明板
現状 城址公園、山林
築城年 文明元(1469)
築城者 岩松家純
歴代城主 岩松、上杉、武田
形式 山城(Pから比60m、標239m)
訪城日 2010/10 感想

おおたかなやまじょう