八木土城
別名 八木古城
所在地 兵庫県養父市八鹿町八木
遺構等 曲輪、土塁、井戸
現状 山林
築城年 鎌倉時代
築城者
歴代城主 閉伊、八木
形式 山城(比310m)、標409m
登城口から主郭まで約50分
訪城日 2010/11 感想
城跡の地図
登城口の地図
【道案内】
高柳小学校から国道9号で1.3km程西進すると道路に城跡の案内が出ており、そこを右折します(角に登山口の石碑有)。正面にお堂や説明板があり、この50m先を左へ入り、すぐを右折して獣よけフェンスを越えると登城道があります。車はお堂付近の余白に停めると良いでしょう。
【感想・メモ】
八木城(石の城)から堀切を越え、更に7分程で八木土城内に入ります。一段、一段、しっかりした郭が続き、まだあるの?と驚きます。ほとんどの郭は西側に土塁があり、井戸(池)がある郭の上の郭から二郭へ向かう枡形虎口がカッコいいです。

二郭虎口

鎌倉時代初期、八鹿町朝倉に居住した朝倉高清が西方の峰に築かれていた土城の城主・閉伊十郎行光と戦い勝利した後、三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりと言われる。以来豊信まで15代、約400年続いた。南北朝時代、関東から但馬に入り、出石を本拠として全国に名をはせた山名氏の傘下に入り、代々山名四天王の一人として重きをなした。この南北朝時代から戦国時代にかけて、新城(石の城)を築いた。戦国時代、織田信長の命を受け毛利攻略に向かった羽柴秀吉は姫路城を拠点としてまず播磨但馬を平定したが、天正8年(1580)3月、八木城も落城した。天正13年、秀吉の配下であった別所重棟が新たに八木城に入り、子の吉治と2代15年間在城した。慶長5年(1600)吉治は関ヶ原の戦いで西軍に属したため所領を没収されたが、徳川家に仕える春日局が伯母にあたるよしみで許された。翌年、吉治は改易となり八木城は廃城となった。

井戸がある郭

【歴史】

やぎつちじょう
TOPページへ

石城から土城を望む