大溝城
【感想・メモ】
ここは明智光秀が設計し、織田信澄が城主だったことで有名ですが、一番の見所はナントいっても天守台の石垣。1つ1つの石がとても大きいですが、天守台の上に行ってみると何だかさびれた雰囲気で物悲しいです。天守台周囲に水堀が残っていて、それが情緒があって良かったです。
城跡の地図
【道案内】
JR湖西線「近江高島駅」から東へ約300m。高島総合病院の東に位置し、駅前をまっすぐ進んだ「高島駅口」信号を右折してすぐ右手に、大溝城跡の案内も出ています。付近に駐車場はないため、少し離れた道の余白に停めました。
【歴史】
天正6年(1578)、織田信澄(信長の弟・信行の子)が高島郡を領し、明智光秀の縄張りによって築城した。天正10年、本能寺の変後、信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀と謀り大坂城内の信澄を攻めたため、信澄は自害して果てた。信澄死後、大溝城には丹羽長秀、加藤光泰、生駒正親、京極高次が入れ替わり入った。元和5年(1619)、京極氏に替わって分部光信が伊勢上野より2万石で入った。しかし元和の一国一城令で大溝城は三の丸を残し破却された。分部氏は 残った三の丸に陣屋を構え、代々続いて明治を迎えた。


別名 高島城
所在地 滋賀県高島市(高島町)勝野
遺構等 曲輪、石垣、総門、堀、碑、説明板
現状
築城年 天正6(1578)
築城者 織田信澄
歴代城主 織田信澄、丹羽長秀、植田重安、加藤光泰、生駒親正、京極高次、織田三四郎、吉田修理、分部
形式 平城
訪城日 2010/9 感想
おおみぞじょう
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