戦国時代の武人であった上坂氏の館跡である。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握った。しかし、大永3年(1523)、京極家の内紛により信光は失脚、代わって浅井家が台頭し戦国大名となった。家信・信光は、代々治部丞を名乗ったが、浅井氏の治世下になると、伊賀守を名乗る上坂氏が史料に表れる。伊賀守意信は浅井家に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟。羽柴秀長の家臣として各地を転戦した。関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで、帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から跡識を受け取った。なお、伊賀守家の相伝文書である「上坂家文書」が、西上坂町共有として現存する。上坂氏は、中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井」の管理者として知られ、姉川上流や右岸の村々との争いに際しは、その代表者としてのぞんだ。館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残す。また、江戸時代の絵図「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童公園である。浅井家家臣の館跡として下坂氏館跡(長浜市下坂中町)と共に貴重な史跡といえる。(現地説明板より) |