城跡の地図
上坂城
別名
所在地 長浜市西上坂町
遺構等 曲輪、土塁、屋敷跡、碑、説明板
現状 児童公園
築城年 室町時代
築城者 上坂氏
歴代城主 上坂
形式 平城
訪城日 2004/4/18
【道案内】


【感想・メモ】
こうさかじょう
【歴史】
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北陸自動車道「長浜インター」を下り、県道37号を国道365号方面へ東進します。2km程東進すると道路沿い左手に公園があります。この公園付近一帯が城跡です。「東上坂町」信号まで行くと行き過ぎです。
場所は不明だけど、茅葺き屋根の門の向こうに土塁が残っていてお庭っぽい雰囲気の所に、お城の説明板と碑がありました。
戦国時代の武人であった上坂氏の館跡である。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握った。しかし、大永3年(1523)、京極家の内紛により信光は失脚、代わって浅井家が台頭し戦国大名となった。家信・信光は、代々治部丞を名乗ったが、浅井氏の治世下になると、伊賀守を名乗る上坂氏が史料に表れる。伊賀守意信は浅井家に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟。羽柴秀長の家臣として各地を転戦した。関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで、帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から跡識を受け取った。なお、伊賀守家の相伝文書である「上坂家文書」が、西上坂町共有として現存する。上坂氏は、中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井」の管理者として知られ、姉川上流や右岸の村々との争いに際しは、その代表者としてのぞんだ。館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残す。また、江戸時代の絵図「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童公園である。浅井家家臣の館跡として下坂氏館跡(長浜市下坂中町)と共に貴重な史跡といえる。(現地説明板より)