井口城 |
国道385号「井口南」信号を東へ入り、150m程東進した突き当りを左折します。500m程北上した左手に「富永小学校」があり、この小学校一帯が城跡です。小学校正門前に駐車場があります。 |
別名 | |
所在地 | 高月町井口 |
遺構等 | 碑、説明板 |
現状 | 富永小学校 |
築城年 | |
築城者 | 井口氏 |
歴代城主 | 井口 |
形式 | 平城 |
訪城日 | 2008/6 |
いぐちじょう |
富永小学校の正門前に、石碑と説明があります。また、この小学校の脇(南東側)にある門の前には雨森芳洲庵の像があり、学校の南東にある理覚院は井口弾正の菩提寺でちょっとした庭園と奥にお墓がありました。この付近は水路があって、なかなか雰囲気のある町並みが良いです。 |
井口氏居館跡で、井口氏は近江佐々木氏の一族と伝えれられ、中世以来高時川の「井預り」として湖北地方の水利権を掌握していた。戦国時代には浅井家の重臣として活躍し、「湖北四家」に数えられていた。享禄4年(1531)、箕浦の戦いにて井口弾正経元は浅井亮政の身代わりとなって主君の危機を救い、亮政は経元の忠死を悼んで経元の嫡男・経親を重用し、弾正の娘阿古を亮政の子・久政の室に迎え長政を産んだ。長政はお市との間にお茶々(後の淀君)、お初、お江を設けた。末娘のお江は二代将軍秀忠の正室となり、その子和子は天皇家へと系譜が続いた。(現地説明板参照) |