高取城
別名 芙蓉城
所在地 高取町高取
遺構等 曲輪、土塁、竪堀、堀切、石垣、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 南北朝時代
築城者 越智氏
歴代城主 越智、本多、植村
形式 山城(比390m)
訪城日 2003/11/22
城跡の地図
【道案内】
壺阪寺から県道119号で500m程東進し、道が二手に分かれたら左へと県道119号をキープします。更に2km程行った道路終点が登城口で数台駐車可能です。
【感想・メモ】
飛鳥芋峠〜みろく堀切〜本丸と歩いた事があるが、七つ井戸まで車で行き、そこから本丸〜猿石〜本丸の往復がお気楽に楽しめる。七つ井戸からだとすぐ本丸に着く。新櫓や本丸付近は紅葉シーズンが綺麗だ。本丸〜二の丸〜三の丸へと下っていくと石垣のオンパレードで堪能できる。猿石から本丸目指すと、二の門の石垣や広い水堀も見られ、そこから少し登って左手奥を見ると、石組みの井戸があり、これまたでっかい!国見櫓からは大和平野が一望でき気分最高!!各櫓の石垣や、枡形虎口の石垣に見とれます♪ただし、夏場は酷い藪で二の丸より下の曲輪に入れない上に、道も藪で塞がれるので、楽しさが激減します。子嶋寺に二の門が移築されている。
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【歴史】
たかとりじょう
南北朝時代、越智氏本城・貝吹山城の詰の城として越智氏が築城した。天正8年(1580)、織田信長が大和国に一国一城令を出したため高取城は廃城となったが、天正12年、筒井順慶が大和郡山城の詰の城として高取城を復興した。天正13年、筒井定次が伊賀上野へ転封となり、大和・和泉・紀伊三国は豊臣秀長が領して、高取城には本多正俊が入り、城を大改修させた。本多氏は大和大納言家断絶後、1万5千石を領する大名となったが、寛永14年(1637)、本多利家に嗣子が無く断絶した。寛永17年、植村家政が2万5千石で入封し、以後植村氏が続いて明治を迎えた。