須川城

別名 鷹塚城
所在地 奈良市須川町下須川
遺構等 曲輪、土塁
現状 山林
築城年
築城者 簀川氏
歴代城主 簀川
形式 山城(比100m)
訪城日 2008/6

【感想・メモ】
すがわじょう
【歴史】
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国道369号「大柳生」信号を西へと県道47号に入ります。1.2km程西進して左手に「興東中学校」を過ぎて少し行くと、左手に上がっていく細い道があるのでそちらへ入ります。途中から未舗装になりますが、道なりに進み鉄塔を目印に右手へカーブしていくと山の間に入ります。この左手の山頂が城跡で、付近に駐車可能です。
城跡の散策に際しては、「気分はコクジン」を参照しました。適当に山を直登すると5分もかからず城跡で、方形単郭で土塁が巡っています。堀はありません。鉄塔がすぐ南東にあり、そのためにその付近の土塁が壊されています。
簀川氏が築城し居住した。簀川氏は簀川庄下司で、応仁の乱では古市氏に従い、以後戦国初期にかけて狭川氏と共に古市方であったが、福智庄・大柳生庄を巡ってしばしば狭川氏と対立した。天文10年(1541)、木沢長政に従っていたが、小柳生氏と共に裏切り木沢方の笠置城を襲撃した。長政死後、筒井順昭と対立し、天文12年には順昭率いる6千余の兵に攻められ、簀川氏は多田氏の仲介で山城の当尾に落ち延び、城は破却された。しかし、間もなく簀川氏は復帰し、戦国末期には狭川・柳生氏と結んだ。元亀年間(1570-73)、松永・筒井両氏が争っていた際は松永方に属した。(『日本城郭大系10』参照)
【道案内】
城跡の地図