行永城 |
石仏がある民家左脇から背後へ回り込んで山へと道が続いています。登ると段郭になっていて下段は古い墓地です。主郭東に堀切があり、北西尾根に続く段郭から見上げる切岸が高くて立派です。主郭一段北西の郭の南東隅とその下の段の南東隅及び北に竪堀があり、北西端の郭には社が祭られています。社の北東の郭には井戸があるようですが見忘れました。また、登城してきた北郭の東や西の斜面にも竪堀があります。遺構はしっかりしているのですが縄張にさほど面白味を感じなかったせいか全体には地味な印象でした。 |
主郭東の堀切
別名 | 亀岩城 | ||
所在地 | 京都府舞鶴市行永 | ||
遺構等 | 曲輪、土塁、竪堀、堀切、井戸、虎口 | ||
現状 | 山林 | ||
築城年 | 戦国時代 | ||
築城者 | |||
歴代城主 | 上羽氏 | ||
形式 | 山城(比60m、標80m) 登城口から主郭まで約10分 |
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訪城日 | 2011/4 | 感想 | ○ |
JR舞鶴線「東舞鶴駅」から南南東へ約1.8km。倉梯小学校南東から府道51号で550m程南下して左折し、100m程東進して与保呂川を渡り、更に80m程東進した2本目路地を右折します。250m程南下して左折すると左手に芥子谷団地がありますが、この右手の小山が城跡です。先程左折した所から80m程東進した民家脇が登城口で付近余白に駐車しました。 |
永正7年(1510)、一色義晴死後、宮津府中の丹後守護代延永氏が若狭高浜城主逸見駿河守と共謀して若狭守護武田氏を攻めたが、永正14年、越前守護朝倉孝景らに立て籠もっていた倉橋城を攻められ降伏した。その後、武田氏と親密な丹波の細川晴国方の部将上羽丹波守が倉橋城主となり、天正7年(1579)細川藤孝が丹後に攻め込んできた際、嫡子の同じく上羽丹波守は細川氏に属して功を挙げた。慶長5年(1600)細川氏の移封に伴い上羽丹波守は追随したが、弟はこの地で帰農したといわれ、近世初期に大庄屋を務めた上羽家はこの末裔といわれる。 参考資料 『舞鶴の山城』舞鶴山城研究会発行 『日本城郭大系』新人物往来社発行 |
ゆきながじょう |