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別名 |
北白川城、瓜生山城 |
所在地 |
京都府京都市左京区一乗寺松原町 |
遺構等 |
曲輪、堀切 |
現状 |
山林(瓜生山) |
築城年 |
永正17年(1520) |
築城者 |
細川高国 |
歴代城主 |
細川高国、足利義晴、六角義賢、明智光秀 |
形式 |
山城(Pから比130m、標301m) |
登城時間 |
主郭まで約15分 |
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主郭 |
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瓜生山が城跡です。狸谷不動尊の奥、狸谷山不動院への階段前(右写真)まで車で行き、ここから登ります。登城口に参拝者用無料駐車場があります。 |
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登城口 |
東の堀切 |
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【感想・メモ】 |
ひたすら階段を上ると懸造りの立派な狸谷山不動院があり、更に階段を上ってハイキングコースに入ります。瓜生山山頂が主郭で説明板があり、お堂の裏手に石室があります。東尾根を断ち切る堀切がかなり立派で、南尾根にも堀切があります。 |
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【歴史】 |
永正17年(1520)、細川高国がここに陣を構え、その際の戦勝を記念して勝軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。享禄3年(1530)、高国が近江へ逃れ、被官内藤彦七が六角定頼の援助の下に守備したが、翌享禄4年、東山新城と共に焼失し、細川晴元方に奪われた。天文15年(1546)将軍足利義晴と晴元が対立し、義晴はこの城を大改修した。その際、洛中洛外の寺社や権門を通じ、京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発したと思われる。しかし、翌天文16年、将軍父子は当城を自焼して出奔し、城は灰燼に帰した。その後、幕府方の軍勢の拠点は中尾城、霊山城に移ったため、この城は部分的にしか使われなかったが、永禄元年(1558)、将軍足利義輝と三好長慶との京都争奪戦に際し、三好長逸や義輝が在駐するなど、焼失と再建が繰り返された。永禄4年、畠山高政と結んで長慶に反旗を翻した近江守護六角義賢が翌永禄5年まで在城した。元亀元年(1570)、比叡山に拠った浅井・朝倉勢に対峙して明智光秀が数ヶ月滞在したのが最後と思われる。 |
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