法貴山城
【道案内】
城跡の地図
登城道がないため、できるだけ尾根に出るように右手方向へ直登しました。尾根に取り付いて少しすると城の主要部より南東の郭と堀切に出ます。ここから藪の中を更に10分程進むと少し広い郭があり、その北の段郭を行くと立派な堀切があり、堀切は南で竪堀となって落ちています。もう1段上にも堀切があり、このまま主郭南へ横堀になっています。その上が主郭で真ん中の土塁で2つに仕切られ、西側の土塁は高く、この西側にも堀切があります。更に西へと段郭を下りると土塁を伴った郭と堀切があります。こちらの堀切もそのまま南へ竪堀で落ちています。主郭の南側は東西にあった堀切がそのまま横堀としてつながっており、1段下にも横堀があって二重になっています。下側の横堀からは竪堀が幾つか落ちておりかなり見応えがあるのですが、あまりに酷い藪で歩くのもとても大変です。かなり面白い縄張で、遺構もしっかり残っているのですが、山が荒れ、藪が酷く、道も無いので、随分疲れます。視界が悪いために道に迷いやすいので気を付けて下さい。とても危険なので、帰りは来た道を下山しました。

主郭南の横堀


室町時代、酒井参河守が築城したといわれる。戦国期には、笑路城主長沢家綱が屏風岩「明智戻り岩」で明智光秀と対面した際、法貴山城主酒井孫左衛門が長沢家との内縁の好をもって光秀にとりなし、笑路城は安堵されたと『長沢家文書』にあることから、酒井氏は早い段階で明智氏に属していたと思われ、この時期に城は改修されたようである。また、摂津と丹波を結ぶこの峠道にある大岩は「屏風岩」と呼ばれていたが、天正10年(1582)6月1日、織田信長から豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられた明智光秀は、丹波亀山城を出発し、この屏風岩に達したところで急遽、本能寺へと矛先を変えたことから「明智戻り岩」と呼ばれるようになったといわれている。

参考資料
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板
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主郭から1段東下の堀切

【歴史】
別名
所在地 京都府亀岡市曽我部町法貴岩ケ窪
遺構等 曲輪、土塁、竪堀、堀切、横堀
現状 山林
築城年 室町期
築城者 酒井参河守
歴代城主 酒井氏
形式 山城(比130m、標380m)
戻り岩案内から主郭まで約30分
訪城日 2011/5 感想
「明智の戻り岩」北西の山が城跡で、戻り岩の案内がある付近に駐車し、この左横から直登しました。

【感想・メモ】
ほうきやまじょう