城跡の地図
篠の丸城
別名 熊見城
所在地 宍粟市山崎町加生 
遺構等 曲輪、土塁、堀切、空堀、虎口、碑、説明板
現状 山林
築城年 貞和年間(1345)頃
築城者 赤松貞範
歴代城主 赤松
形式 山城(比220m)
訪城日 2004/3/27
【道案内】

【感想・メモ】
ささのまるじょう
【歴史】
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最上山公園の北の山が城跡です。国道29号「しそう農協前」信号を西へと県道429号に入り、500m程西進します。すると県道429号が右折となりますが、そこを直進し、更に1km程西進すると登城口手前に駐車場があります。
最上山公園の上に駐車場があるので、そこから登るとよいです。階段を登り始める所に鳥居があり、篠の丸城跡の碑がありました。ここから登ること20分。やっと本丸下の空堀と本丸土塁上の城址碑を見て、本丸へ。本丸へ入ると、土塁が巡っているのが分かります。そのすぐ北にも削平地があり、更に北は林になっていました。本丸のすぐ西側には幾つかの曲輪が南北に連なってありあり、その一番南側の曲輪からは更に西にかけて曲輪がありました。この西曲輪には展望台があり、眺望がとっても良かったです。全体的に遺構がよく残っている上、草などもなく見やすかったので良かったです。
貞和年間(1345)頃、赤松貞範が築城したといわれる。嘉吉の乱で、赤松氏滅亡となり一旦落城したが、赤松政則が赤松再興を果たした際、篠の丸城北方の長水城に赤松一族の宇野氏を入れ、篠の丸城も復興した。天文7年(1538)、出雲尼子氏の播磨侵攻の際、篠の丸城は長水城と共に落城した。尼子氏は2年間支配したが、その後宇野氏が復活した。天正8年(1580)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨へ攻め入った際、篠の丸城を落とし、秀吉から山崎の地を預かった黒田官兵衛孝高は、この城を本拠とした。秀吉の九州平定後、孝高は豊前中津に移封となり、代わりに龍野城から木下勝俊が入封したが、平地に山崎城を築いたため、篠の丸城は廃城となった。
虎口(右)と城址碑