城跡の地図
新庄城
別名 太田新城、辰城
所在地 富山市新庄町
遺構等 説明板
現状 新庄小学校
築城年 永正年間(1504-21)
築城者 長尾為景
歴代城主 長尾、上杉、佐々、土肥、前田
形式 平城
訪城日 2006/7/27
【道案内】


【感想・メモ】
しんじょうじょう
【歴史】
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富山地方鉄道本線「東新庄駅」から北北西へ約500m。国道41号と県道56号が交差する「荒川東部」信号を北へと県道56号で北上します。300m程進んで富山鉄道を横切り、更に500m程北上した「問屋町」信号を右折します。300m程東進した信号を右折し、200m程進んだ右手に「新庄小学校」があります。この小学校が城跡で、学校の駐車場に車は停めさせて頂きました。
小学校の正門を入ってすぐ左手に説明板があります。遺構は全くないのですが、運動場にちょっとした高台があったのが土塁っぽい雰囲気を作っているのかなぁと気に入りました。
この城は、東に常願寺川、西に荒川を望む要害の地にあり、北陸道に面する交通の要衝でもあったため、早くから軍事上の拠点として重要であった。永正17年(1520)、越後の長尾為景は神保慶宗らを討つため越中に進行し、慶宗を背走させ、自刃に追い込んだ。このとき新庄に陣したといい、これがはじめての記録である。この頃、新庄城は長尾方によって整備されたとみられる。元亀3年(1572)上杉景虎(謙信)の武将鯵坂長実が在城し、5月、一向一揆が富山城を攻略すると、新庄城は上杉氏の富山城攻めの前線基地となった。天正8年(1580)、織田信長方の神保長住が新庄城を攻めており、佐々成政が富山城を拠点にした越中平定には新庄城は佐々成政方の城となっている。同13年、上杉方の土肥氏勢が一時新庄城を奪っているが、その後前田氏の城となり、元和元年(1615)までには廃城となったと思われる。(現地説明板より)