日中城 |
別名 | 日中館 |
所在地 | 立山町日中 |
遺構等 | 曲輪、土塁、空堀、碑、説明板 |
現状 | 日中集落東の墓地 |
築城年 | 天正11(1583) |
築城者 | 佐々成政 |
歴代城主 | 佐々 |
形式 | 平城 |
訪城日 | 2008/4 |
にっちゅうじょう |
県道157号と167号が交差する「日中北」信号を東へ入り、50m程東進した1本目の路地を左折して日中集落に入ります。300m程北上して右折すると前方に墓地が見えます。ここが城跡です。墓地の付近に駐車スペースがあります。 |
城跡は日中集落東にある墓地になっていて、本当に思いっきり墓石だらけとなり土塁が隠れて見えないです。墓地の手前に城址碑や説明板があり、墓地の周りに空堀があるのが分かります。墓地へと入っていく所が虎口となり、通り道は土橋です。遺構としてはしっかり残っているけど、ここまでお墓だらけだと、ちょっと悲しいです。 |
弓庄城主・土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従属していたが、天正6年(1578)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従属した。しかし、天正10年に信長が本能寺で討たれると、再び上杉方と通じるようになった。佐々成政は天正10〜11年にかけ、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻した。魚津・小出両城陥落後の天正11年4月以降から成政の攻勢が本格的となる。天正11年4月頃、佐々成政は土肥美作守政繁を攻めるために4つの砦を築造し、日中城跡はその付城の1つであったと推定されている。土肥氏は弓庄城で籠城を続けたが、豊臣秀吉が賎ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は、弓庄城を明け渡して越後の糸魚川城へと退去した。(現地説明板より) |