鮫ケ尾城
別名 宮内古城
所在地 妙高市(新井市)宮内
遺構等 曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸、碑、説明板
現状 山林
築城年 戦国時代
築城者
歴代城主 堀江
形式 山城(比110m)
訪城日 2003/7/25
景虎が自害したお城です。登りながら、横堀・竪堀・土塁・堀切などが見られます。細々した曲輪群があり、何が何だか分からなくなりそう。縄張図を見ながら歩いていて、めっちゃ広大な山城である事に気付き驚きだした私。しかも、かなり深い堀切が曲輪と曲輪の間に幾つもあり、堪能できます。特に、本丸・米蔵周辺は圧倒されっぱなしで、スゴーイ!スゴーイ!を連発していました。途中には曲輪を囲むようにピンクの紐がありました。このピンクの紐を見ていると、曲輪の広さと複雑な地形がよーく分かります。
【感想・メモ】
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【道案内】
築城者は不明だが、戦国時代に信越国境から春日山城への北国街道沿いを防衛するため築城したと考えられる。天正6年(1578)「御館の乱」にて、鮫ヶ尾城主・堀江駿河守宗親は上杉三郎景虎に加担し、御館に千の兵を率いて入城した。御館は上杉景勝軍により天正7年(1579)落城し、三郎景虎は小田原城へ逃亡する際、鮫ヶ尾城へ入った。景勝は鮫ヶ尾城を包囲し城下を放火した上で、安田顕元を介して内通に応じた堀江宗親が、二の丸に放火して鮫ヶ尾城を出た。景勝軍の攻撃で上杉三郎景虎は自刃し、鮫ヶ尾城も落城した。
登城口の地図
国道18号「乙吉」信号を西へ入り、1本目の路地を左折して県道85号に入り、斐太神社を左手に通り過ぎて少し行った左手に、「鮫ヶ尾城跡大手道入口」の案内が出ているので、ここから登ります。

【歴史】
さめがおじょう
登城口(大手道)
土橋