長野県のお城
しがじょう
志賀城
別名
所在地 長野県佐久市志賀
遺構等 曲輪、土塁、竪堀、堀切、石垣
現状 山林
築城年 不明
築城者 不明
歴代城主 笠原氏
形式 山城(比150m、標880m)
登城時間 登城口から主郭まで約22分
西から2つ目の郭の南面石垣
訪城日 2013/3 感想
【道案内】 登城口の地図 城跡の地図
県道44号沿いの志賀郵便局から700m程南東へ進んで左折すると正面に「雲興寺」があります。このお寺の東(寺に入らず右手の道を進む)のフェンス外側の階段が登城口です。
【感想・メモ】
整備された登城道から見渡せる、そそり立つ岸壁に要害に築かれたことが分かります。東西に延びた尾根に郭や堀切が配置され、石垣が各所で見られます。主郭周辺の石垣は信州でよく見られる平たい石ですが、西方は大き目の石が使われ、西から2つ目の郭は西と南に石垣を設けて遮断しています。城内は見やすいのですが、何故か主郭だけが藪で、祠が隠れるようにあります。主郭の東は痩せ尾根と岩場で下を覗くのが怖いです。また、城から南正面に五本松城が、南東麓には笠原清繁の首塚(地図)が見え、雲興寺は笠原氏の居館といわれています。
【歴史】
築城時期は不明だが、戦国時代には笠原新三郎清繁が城主だった。佐久の完全制圧を目指す武田晴信は、唯一抵抗を続ける笠原清繁を討つべく天文16年(1546)に志賀城を攻めた。志賀城には上野国の高田憲頼が援軍として入り、関東管領・上杉憲政にも援軍を要請していた。しかし、小田井原の戦いで上杉氏援軍は壊滅し、討ち取られた首3000が城の周りに並べられたという。これにより城内の士気は落ち落城、笠原清繁、高田憲頼ら城兵300余りが戦死し、生け捕られた者は黒川金山などへ人身売買されたと伝えられる。
参考資料
『図解 山城探訪』宮坂武男著
『長野県の中世城館跡分布調査報告書』長野県教育委員会発行

主郭東の堀切 城の南面の岸壁 登城口 笠原清繁の首塚

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