勝山館

大手
別名 和喜館、脇館
所在地 上ノ国町勝山
遺構等 曲輪、土塁、空堀、井戸、碑、説明板
現状 史跡公園
築城年 15世紀後半
築城者 蠣崎氏
歴代城主 蠣崎
形式 山城
訪城日 2008/7
【道案内】 城の地図
国道228号「道の駅上の国もんじゅ」から100m程東進して右手前方向へと右折します(道路に案内有)。道なりに1km程坂を上がっていくと左手に「勝山館跡ガイダンス施設」があります。ここに駐車して、少し戻る方向(北)にある勝山館搦手の案内に従って東へ進むと館跡です。
【感想・メモ】
館跡は史跡公園として復元整備されています。搦手へ行く途中、墳墓群があります。搦手門の手前に堀があり、ここから館内が綺麗に復元整備され、あちこちで礎石が見れたり、案内表示が行き届いていて分かりやすいです。大手に向かって下りの傾斜となり、海も見渡せて気持ちよく、大手下から見上げると、柵や堀がカッコいいです。西方にあるゴミ捨て場・土葬墓群、水場(樋・井戸)も見応え有りで、気軽に夏場でも楽しめるお城です。
【歴史】
館の築造年代は明らかでないが、館奥に祀られている館神八幡宮は文明5年(1473)建立であるため、15世紀後半に築かれたと思われる。松前大館(徳山館)に移った蠣崎氏は花沢館を廃し、同族を勝山に配して蝦夷地和人居住地の北西端を守る本拠とした。勝山館の成立により花沢洲崎の2館は廃され、永正元年(1504)にはこの勝山から北西14kmにある泊に館が築かれ、2代義広の子・高広が館主となり、高広が勝山館守護となった。高広没後、子・基広が継いだが、基広は館守護の地位に不満で天文17年(1548)4代季広を毒殺しようとしたが発覚して誅され、その後、天文21年(1552)まで勝山館には城代を配置した。近世初頭、上ノ国は鮭と木材生産地として和人の定住者が多く、この勝山館を番所として利用したと思われる。しかし、延宝6年(1678)檜山番所は交通の便の良い江差に移り、勝山館は廃されたと思われる。(『日本城郭大系 1』参照)
大手方面を見下ろす 搦手 ゴミ捨て場・土葬墓群 水場(井戸)
かつやまだて