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別名 |
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所在地 |
岐阜県瑞浪市稲津町小里 |
遺構等 |
曲輪、土塁、堀切、石垣、説明板 |
現状 |
山林 |
築城年 |
天正2(1574) |
築城者 |
小里光明 |
歴代城主 |
小里 |
形式 |
山城(比175m、標403m) |
登城時間 |
麓の小里陣屋から20分 |
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天守台 |
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稲津小学校から南南東へ約1km。城の北側を通る県道20号沿いに登城口の看板があり、道路向い側に駐車場があります。 |
【感想・メモ】 |
麓となる登城口付近は小里陣屋があったところで公園整備され、立派な石垣が見られます。ここから小里城まで登城道は整備され、案内や縄張図付きの看板もあるので安心です。所々に大きな石も組み込まれた天守台石垣が圧巻で、周囲に散乱している石も雰囲気を醸し出しています。南尾根を下ると大堀切もあります。 |
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【歴史】 |
小里光明は織田信長に仕えており、天正2年(1574)、甲斐武田氏によって明知城が落城した際、織田信長は小里城を普請して池田恒興を番手とした。本能寺の変の後、光明は金山城主・森長可に従わず、徳川家康を頼って小里を退去したが、関ヶ原の合戦時に小里城へ入城し、東軍に属して戦功を挙げた。戦後、光明は土岐・恵那郡内3580石を領したが、その子・光重が元和9年(1623)に没し、小里氏の嫡流は断絶した。それにより、小里城は廃城となった。 |
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【参考資料】 |
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集(可茂地区・東濃地区)』岐阜県教育委員会 |
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