【道案内】 |
城跡の地図 |
登城口の地図 |
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登城口 |
JR木次線「南宍道駅」から北東へ約400mの金山要害山が城で、山の南西が登城口。南宍道駅からすぐ南の通りを西へ少し歩くと金山要害山の案内があり(右写真)、これに従い線路を横切り、山へ入っていくと神社経由で道があります。南宍道駅のすぐ東にある「金山下公民館」に駐車しました(駅の東約150mに公民館入口があり、駅のすぐ南の通りより、もう1本南の通りからJR線路をくぐる手前で北へ入り、100m北上して公民館へと斜め右へ上がるほうがアクセスしやすい)。この他、山の北側にも登城口があります。 |
【感想・メモ】 |
10分程で石段を登りきった所に石が祭ってありますが、ここが主郭南西の郭です。ここから西の大堀切を見て主郭へ。主郭北東の一段高い所に看板があり、東にあるロープを伝って下りると畝状竪堀が見られます。主郭北の腰郭は整備され切岸が美しいです。大堀切の北側には桝形虎口があり、西は二郭で、長成、椎ノ木成と続きますが藪。また、ここから北尾根へかなり下ったものの道以外は竹薮。このまま下ると北側の登山口まで行ってしまうので引き返しました。 |
【歴史】 |
遠景 |
応仁年間(1467-69)頃、出雲守護京極高氏の孫・秀益が築城し、宍道八郎と称したといわれる。宍道氏は尼子氏重臣だったが、天文12年(1543)大内義隆の月山富田城攻めの際、多くの国人と同様に宍道氏は大内氏へ寝返った。しかし大内氏が尼子氏を攻めあぐねると、多くの国人は尼子氏方へ寝返ったが、宍道氏は大内氏と共に山口へ敗走した。その後、大内義隆が陶隆房(後の晴賢)に討たれると、宍道氏は毛利元就に属して当城に復帰した。現在見られる普請のほとんどは永禄5年(1562)以降とされる。48成と呼ばれるほど多数の郭を配置している。 |
【参考資料】 |
『島根県中近世城館跡分布調査報告書(出雲・隠岐の城館跡)』島根県教育委員会発行 |