【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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国道54号「可愛橋北詰」信号を南へ入り、江の川を南へ渡ってすぐを右折し、堤防道路を400m程南西に進んで左折します。道なりに300m程南下した道路突き当り右手が登城口で左手が駐車場です。登城口に城址碑と説明板があります。 |
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【感想・メモ】 |
登城道や城内は整備されており、5分程登ると居館跡で元就誕生伝説地の石碑や説明板があります。そこから10分弱で本丸で、城址碑があり、眺望がとても良いです。南へ下ると立派な堀切があります。「井の壇」の井戸は石組みでかなり深そうで、井の壇から少し下って左手へ入ると二重堀切があり、その下に段郭があります。こじんまりしているものの、まとまっているお城と思いました。また、城から1つ東の尾根先端に福原氏墓所があり、比高60m程登ります(案内有)。 |
【歴史】 |
福原氏は大江氏の子孫である。大江広元の次男・時広は、武蔵国長井庄を領して長井に改姓し、四男・季光は相模国毛利荘を領して毛利と改姓した。永徳元年(弘和元、1381)、毛利元春の五男・広世は長井氏を相続して6代の領主となり、父・元春から安芸国中部庄福原村を譲られて、鈴尾城を築いて移り住み、福原と改姓した。8代・広俊の娘が毛利弘元の妻となり、長男・興元が誕生し、次男・元就は明応6年(1497)3月14日、母の里であるこの城内で誕生したと言われる。天文5年(1540)郡山合戦では10代・広俊がこの守備にあたり西に備えた。慶長5年(1600)13代・広俊は毛利輝元に従い防長に移り廃城となったが、この間7代219年にわたって福原氏が居城した。 |
【参考資料】 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |