【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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教善寺の南の山及び北の尾根先端が城跡。県道319号と県道6号が交差する角にある「丹比郵便局」から319号で700m程西進して左折します(案内有)。道なりに坂を上がると「教善寺」で道が突き当り、第3駐車場があります。この駐車場の前が登城口です。 |
【感想・メモ】 |
登城道は整備され、第3駐車場から3分も登ると左手に段郭が見えてきて「寺屋敷曲輪群」となります。更に2分程登ると立派な竪堀が見え、寺屋敷から5分程で本丸に着きます。本丸北側には櫓台があり、南側には土塁があります。更に南には大堀切があり、幅が広すぎて写真に収まりません。2本の堀切の先は一騎駆けになっており、両側に畝状竪堀があります。このまま尾根伝いに南へ進むと物見丸で手前に堀切があります。案内図だとここから弘元墓所へ下れるようですが、道があるか不安だったので再度本丸へ戻って下山しました。また、教善寺のお堂に向かって左手(北)へ進むと出丸で、頂部が出丸の本丸、その南が二の丸、西が三の丸となり、土塁があります。この出丸は山城を築く前の古いお城のようですが、眼下に町並みを見下ろせ気分がいいです。第3駐車場の手前にあった駐車場からは毛利元就の父である弘元の立派なお墓があります。 |
【歴史】 |
多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。明応年間(1492-1501)、毛利弘元が築城したと言われる。明応9年(1500)、弘元は家督を嫡子興元に譲り、隠居して郡山城から猿掛城に移り住んだ。その時、4歳の毛利元就も父弘元と一緒に移った。大永3年(1523)、元就は毛利家の家督を継承し郡山城に入った。 |
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【参考資料】 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |