【道案内】 |
城跡の地図 |
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JR芸備線「吉田口駅」から南西へ約1km。「吉田口駅」西方の県道37号「吉田口バイパス中央」信号から300m程西進して左折します。この前方右手に見える低い山が城跡で、300m程南下した山の東側に城の説明が刻まれた石があります。城へはこの通りを山沿いに南下し、100m先から宅地背後の未舗装の道を南下して山の南側へ回ると登山口の石碑があり、ここから道が整備されています。車は、未舗装の道には入れないので、山の東側通り沿い余白、または南側に停めるとよいでしょう。 |
【感想・メモ】 |
登城口 |
城は最高所となる中央の郭と、東郭、南西郭の大きく3つに分かれます。登城口から2分程登ると広い削平地に出て、左手(西)へ進むと堀切の先が中央郭(本丸)となり、城址碑や社があります。南西尾根へ進むと堀切があり、南西郭には東側に土塁があります。この下に更に4段の郭がありますが、中央郭以外は結構藪です。 |
【歴史】 |
延文2年(正平11、1356)、中村澄晴が築城し、康暦元年(天授5、1379)孫の元貞が高原庄へ移った後、毛利氏の臣である渡辺氏が入城した。大永4年(1524)、城主次郎左衛門は元就の異母弟相合宗家擁立派だったため、元就に郡山城で殺された。その際、一族も長見土居にて殺されたが、渡辺通は比婆山内氏に逃れ、後に許された。天文12年(1543)の大内氏による出雲遠征に失敗し、自らを犠牲にして毛利軍を敗走させる軍功があった。その子飛騨守は慶長5年(1600)、毛利氏の防長移封に伴い、防長へ移ったため廃城となった。 |
【参考資料】 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』広島県教育委員会発行
『日本城郭大系』新人物往来社発行 |