増田屋敷 |
別名 | |
所在地 | 稲沢市増田南町字屋敷 |
遺構等 | 碑 |
現状 | 八幡社 |
築城年 | 天文年間(1532-55) |
築城者 | 増田長盛 |
歴代城主 | 増田 |
形式 | 屋敷 |
訪城日 | 2003/6/5 |
ましたやしき |
国道302号「土田」信号を北へ入り、川沿いに600m程進みます。稲沢市に入ってから3本目の路地を右折し、100m程北上して突き当たった路地を右折、すぐを左折すると、道路左手に八幡社があります。この付近が屋敷跡といわれています。 |
屋敷跡の正確な位置は分かっていないのですが、八幡社の境内に屋敷跡の碑があります。 |
天文14年(1545)、増田村で生まれた長盛は秀吉に仕えた。後に五奉行の一人となり民政訴訟を担当し、文禄4年(1595)、大和郡山二十万石の城主となった。石田三成と親しかったが、慶長4年(1599)、三成が伏見に居た家康を暗殺しようと企んだ際、家康に内通した。また、関ヶ原の戦いでは西軍方で大阪城の留守役でありながら、毛利輝元の出馬を牽制するなど曖昧な態度を取ることもあった。関ヶ原の戦いの後、高野山へ追放となり、後に武蔵国岩槻へ流された。大阪の陣が勃発した際、家康に大阪城の様子を見聞きして内通せよと命ぜられたがこれを断り切腹させられた。 |