生駒氏は大和国藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいたが、文明年間(1469-87)に前野氏の祖先・宗安が承久の乱(1221)に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼り、初代・生駒左京進家広はこの地へ移り本拠とした。生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、尾北屈指の豪族にのし上がった。生駒氏3代家宗の娘・吉乃は織田信長の側室となり、信忠・信雄・五徳を生み、織田家に対して重要な地位を占めた。弘治元年(1555)生駒屋敷を訪れた秀吉は蜂須賀小六の輩下となり、信長の側室・吉乃のとりなしで信長の下僕に拾い上げられ、仕官はこの屋敷の二の丸の一隅だったと『武功夜話』に書かれている。永禄3年(1560)桶狭間の合戦の西美濃攻め戦略はこの地で練られ、蜂須賀小六や前野小右衛門等によって国々の情報を集め、戦費は4代・生駒八右衛門家長によって賄われた。小牧・長久手合戦時は反秀吉軍の最前線となり城は大幅に改修された。信雄追放後、家長は隠居したが、その子・生駒隼人正利豊は秀吉に仕え、関ヶ原合戦後は松平忠吉に、更に尾張藩祖・徳川義直に仕え、子孫は代々藩の重臣となり、生駒氏は小折に留まり明治を迎えた。(現地説明板参照) |