小折城
別名 生駒屋敷
所在地 江南市小折八反畑
遺構等 中門、碑、説明板
現状 市立布袋東保育園、宅地
築城年 室町末期
築城者 生駒氏
歴代城主 生駒、織田
形式 平城
訪城日 2008/8/2
この碑がある所は、かつて二の丸だったようで、ここから西南へ約150mの「久昌寺」には信長に愛された吉乃さんのお墓があります。この碑から北西へ約150mに龍神社がありますが、その向い側・社務所付近は吉乃御殿のようです。また、中門が移築されている広間家は、生駒家の典医だったようで、廃藩置県の際に貰い受けて移築したとのことです。
生駒氏は大和国藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいたが、文明年間(1469-87)に前野氏の祖先・宗安が承久の乱(1221)に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼り、初代・生駒左京進家広はこの地へ移り本拠とした。生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、尾北屈指の豪族にのし上がった。生駒氏3代家宗の娘・吉乃は織田信長の側室となり、信忠・信雄・五徳を生み、織田家に対して重要な地位を占めた。弘治元年(1555)生駒屋敷を訪れた秀吉は蜂須賀小六の輩下となり、信長の側室・吉乃のとりなしで信長の下僕に拾い上げられ、仕官はこの屋敷の二の丸の一隅だったと『武功夜話』に書かれている。永禄3年(1560)桶狭間の合戦の西美濃攻め戦略はこの地で練られ、蜂須賀小六や前野小右衛門等によって国々の情報を集め、戦費は4代・生駒八右衛門家長によって賄われた。小牧・長久手合戦時は反秀吉軍の最前線となり城は大幅に改修された。信雄追放後、家長は隠居したが、その子・生駒隼人正利豊は秀吉に仕え、関ヶ原合戦後は松平忠吉に、更に尾張藩祖・徳川義直に仕え、子孫は代々藩の重臣となり、生駒氏は小折に留まり明治を迎えた。(現地説明板参照)
【歴史】

【道案内】
中門の地図
城跡の地図
こおりじょう
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国道155号「南山町中」信号を南へ入り、450m程南下した信号を右折し、1つ目の路地を右折すると右手に「布袋東保育園」があり、その隅に囲われたところがあります。ここに屋敷跡の碑や説明板があります。

生駒屋敷中門の住所:江南市布袋町中200

吉乃の墓(一番右)


【感想・メモ】

中門