天文6年(1537)、織田信康が築城し木之下城から移った。天文16年、信康は稲葉山城の斉藤道三を攻めるが討死する。次の清康は信長に攻められ甲斐へ逃げた。元亀元年(1570)池田信輝が城主となるが天正9年(1581)尼崎城へ移り、信輝の娘婿で信長の末子である信房が継いだ。信房は翌年、本能寺の変で信長と共に死に、信雄の家臣・中川定成が城主となった。天正12年、信雄と秀吉が敵対関係となり、城主・定成が伊勢へ出陣中に元城主・信輝が城を奪った。これを知った信雄・家康連合軍は小牧山へ出陣、秀吉も対抗して犬山城へ入った。これが小牧・長久手の戦いの始まりである。その後、両者で和議が成立し犬山城は信雄に返されたが、天正18年、信雄が追放されると豊臣秀次が領した。次に美濃金山城主・石川光吉が城主となったが慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍についたため没収された。翌年、清洲城主・小笠原吉次が城主となるも、慶長12年、家康の九男・義直を名古屋城主にする際、お守役として平岩親吉を犬山城へ置いた。しかし親吉には子がなかったため、没後6年間、城主不在だった。元和4年(1618)、義直の守役となった成瀬正成が3万5千石で城主となり、以後成瀬氏が世襲して明治を迎えた。 |