畔田城 |
別名 | 赤沢城 |
所在地 | 豊橋市城下町字築地ノ内 |
遺構等 | 曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口、堀切 |
現状 | 林 |
築城年 | 寛正年間(1460-1466) |
築城者 | 畔田遠江守 |
歴代城主 | 畔田 |
形式 | 平山城 |
訪城日 | 2004/8/8 |
くろだじょう |
虎口 |
畔田城縄張図 原図:高田徹氏 愛知県中世城館跡調査報告書V(東三河地区)より |
国道42号「城下」信号から東進すると左手にすぐ「大円寺」があり、この山門の正面に右へ入る路地があるので、ここを右折します。400m程南下すると直進は細くなり、道は右に曲がっています。ここを右折してしばらく走ると右手に民家風の釣具屋さんが一軒あります。釣具屋の前は田んぼですが、海側へ向かって、釣具屋の正面と、釣具屋から見て右手に2本の小道があります。釣具屋の正面の道を歩いて行くと、途中、階段で整備された道となり、城跡に辿り着けます。 |
少し行くと土塁の桝形虎口があり、ここの土塁は結構格好いいです。この虎口の手前側は家臣の屋敷跡との事です。この家臣の屋敷跡の方(東側)へも、土塁が続いていました。虎口をすぎると土橋があり、その両側に空堀があり、これを過ぎると曲輪に出ます。更に行くと、両側に空堀があり、主郭へと続く土橋があります。最初の土橋の左手の空堀を下りて行くと、この次の空堀と東側でつながっていました。主郭には小さな祠があるだけで、土塁などはありません。海はすぐ近くなのですが、主郭の周囲は雑木林になっていて、海は見えません。また、家臣の屋敷跡から西の方へ行くと、出丸のようなものがあるので今度はそっちへ行ってみました。こっちの出丸へは、釣具屋の右手の道から行きました。まっすぐ行った突き当りから右手(西側)へと歩いていくと、左手(南)は土塁っぽい感じになっていて、正面右手も、土塁があります。こっちからなら出丸へ行けると思ったのですが、この左手の土塁と正面の土塁の間に道を作ろうとしたのか、人為的に大きく削られた跡があり、ここから奥へ行くには、すごい藪と木に阻まれてとても無理だったので、ここまでで断念しました。それにしても、この畔田城は、かなり遺構が残っていて、見応えがあるのでオススメです。 |
田原から豊橋南部の梅田川優位木に掛けて勢力を誇った豪族・畔田氏の本城。畔田氏は草間城、雉子山城、中瀬古館、上地城にも一族を配していた。文明7年(1475)戸田宗光の進出で畔田氏は戸田氏に属したが、後、今川氏が三河へ進出してからは今川に属した。今川氏が三河から退いた際、畔田氏も没落し遠江国平川郷へ去った。 |