【道案内】 |
城跡の地図 |
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JR東北本線「松山町駅」から西南西へ約2km。大崎市松山体育館から50m程東進して県道242号を横切り、更に70m程東進して右手前方向に入ります。道なりに上がりきると御本丸公園で無料駐車場が完備されています。 |
【感想・メモ】 |
本丸 |
公園に入ると、城跡というよりだだっ広い広場といった雰囲気です。高い土壇があったりで、最初ここが本丸かと思ったら三の丸でした。公園整備でかなり改変されていると思いますが、東隅には土塁があります。尾根を南へ進むと二の丸・本丸と続き、間に堀切があり、急峻な切岸に圧倒されます。二の丸は通路以外は一面酷い藪で、本丸との間の堀切には木橋が架けられています。本丸は整備され展望台があり、この南下の曲輪から更に南へ下ると岩盤の大堀切があり、かなり圧巻です。夏でも要所にある大規模な堀切を堪能できたので、他の季節だったらもっと遺構の確認もでき、楽しめると思います。 |
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【歴史】 |
本丸北の堀切 |
『茂庭家記録』によると、遠藤盛遠(文覚上人)が築いたとあるが明確ではない。遠藤氏は、応永8年(1401)11代盛継が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の三郡奉行に任ぜられ、関東より松山に下向した。以後、遠藤氏は天正19年(1591)登米郡石森に移されるまで千石城に居住し、松山郷全域を支配した。天文5年(1536)15代光定が大崎の内訌に際し、古川城攻撃に参陣している。天正16年(1588)、17代高康の時、伊達軍が中新田合戦で千石城を基地として参集しており、天正18年の大崎一揆の平定で伊達政宗が千石城に入っている。これらから、戦国期には伊達領最北の境目の城として大崎氏や葛西氏に対峙する重要な役割を果たしていた。天正19年、遠藤氏が移封となると、石川昭光、古田重直が一時居館したが、慶長8年(1603)からは茂庭良元が松山の領主となり、三の丸を修復して居館を構えた。しかし手狭だったため寛永8年(1631)谷を挟んだ西向いの丘陵上に下屋敷として上野館を築き、隠居して慶安4年(1651)に移った。代わってその子定元が千石城三の丸に入ったが、明暦3年(1657)上野館に居を移し、千石城には留守居として家臣一人を置くだけとなった。以後、上野館が統治の中心となって幕末まで続いた。 |
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【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行
現地説明板 |