【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
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院内小学校から東へ約1.3km。院内小学校から西方を走る県道289号で600m程北上して右折します(道路に案内有)。集落内を道なりに600m東進し橋を渡ってすぐを左折(案内有)、更に250m程東進すると集落を抜け山道の雰囲気になりますが道なりに2km程進んだ左手に駐車場、その右手前方が館の入口となります。山城ですが登ることなくほぼ横づけです。 |
【感想・メモ】 |
駐車場に説明板があり、その図面を確認してから訪れると良いです。主郭は綺麗に整備され、礎石の多さに驚きます。これだけでも一見の価値有りです。更に東端の高い土塁、その手前の庭石と石塁と見ていてとても気分が良くなります。主郭の北郭の西端には模型があり、その北には東西に横堀が長々と続いています。この横堀にも石積みがあります。館全体はかなり広く、郭も沢山あるようですが、他は未整備で藪が酷かったので適当に切り上げました。 |
【歴史】 |
築城に関しては不詳で、平安時代中頃に築かれたとの伝承もある。応仁元年(1467)、仁賀保の祖・大井伯耆守友挙が信濃国から入部し、翌応仁2年に城を改修して入城した。仁賀保氏は由利十二頭の一人とされ、2代目挙政が仁賀保氏を称した。以後、代々山根館は仁賀保氏の居城となった。仁賀保氏は戦国末期より同族の矢島氏と抗争を繰り返したが、7代目挙誠の時に矢島氏を滅ぼしその領土をあわせ、以後、亀田の赤尾津氏と並んで由利郡の二大勢力として由利郡南部から飛島に至る地域を支配した。挙誠は豊臣秀吉の天下統一後、近世大名として活躍し、関ヶ原合戦では徳川方として働いて庄内の仙北の大坂方と戦った。慶長7年(1602)、常陸国武田郡へ転封となり廃城となった。(現地説明板参照) |
【参考サイト】 |
「秋田の中世を歩く」、「城郭放浪記」 |