【道案内】 |
登城口の地図 |
城跡の地図 |
|
|
旧元西小学校南背後の山が城で、小学校の校舎西側から登城道があります。 |
【感想・メモ】 |
|
旧小学校の北下には大手門址の石碑と説明板が、小学校への車道沿いにも説明板があります。登城道は整備され、登り始めて5分もしないうちに北尾根を遮断する堀切があります。南へ進むと屋根と土壇が見える郭があり、その先に隅櫓跡があります。この東側には堀もあり、二郭の東を南進して主郭へ向かう導入路が続きます。主郭の周囲にも郭があり、南郭との間には堀が、その西方には「矢島五郎満安自刃の地」碑があります。また、東尾根との間には堀があり、更に東の城内最高所(標高185m)には飯塚館があります。この東に二重堀、更に先も堀で遮断しています。城域はかなり広く郭も広大で、歩き疲れました。尚、西馬音内川を挟んだ城の北麓にある「西蔵寺」(住所:羽後町西馬音内堀回寺脇4)には移築門があります。 |
移築門 |
【歴史】 |
文治5年(1189)、源頼朝の藤原泰衡征討での軍功により雄勝一円を与えられた小野寺重道がその後稲庭に城を築いた。時代は下り建治3年(1277)、二男小野寺道直が西馬音内城を築いたといわれる。尚、三男道定は湯沢城に配置された。この地は玉米・矢島方面からの街道が眼下を通る交通の要衝であった。
その後、西馬音内茂道の娘を妻とした矢島城主・五郎満安が、由利諸将の攻略により落城したため西馬音内城に身を寄せたが、仙北統一の野望と疑われ文禄元年(1592)満安は自刃した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時、小野寺家は東軍につこうと1800の軍勢で関ヶ原へ向かったが、山形の上杉景勝に説き伏せられ石田三成方についてしまった。その結果、徳川方大勝利で領地を没収、小野寺茂道は山形の最上義光の侵略に対し城に火を放ち自らは庄内に退出したといわれる。(現地説明板参照) |
遠景 |
【参考サイト】 |
「秋田の中世を歩く」、「仙北小野寺氏の城館巡り」、「城郭放浪記」 |