【道案内】 |
城跡の地図 |
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国道13号沿い「後三年の役金沢資料館」から150m程東進した突当り「光蓮寺」の所を右折し、50m程南下して左折します(案内有)。このまま金沢八幡宮下の駐車場まで車で上がれます。 |
【感想・メモ】 |
二の丸は金沢八幡宮が鎮座し、堀切を隔てて北には北の丸が、南東には兵糧倉跡・本丸があります。本丸の東に竪堀、南東尾根には5連続堀切、東尾根にも堀切が幾つかあり、北の丸の北側に連続竪堀、北東尾根に堀切があります。駐車場の南西は西の丸の曲輪群で、ここが一番整備され見やすかったです。中間の堀切や南東、西端の堀切も明瞭で遊歩道がありました。また、駐車場から道路を北西へ歩いていくと通路になった堀切があり、この北尾根にも堀切が、更に通路を下った先にも堀切がありました。城域が広いので、全体を見るのに2時間程かかりました。 |
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本丸南東の5連続堀切 |
北の丸北東の堀切 |
西の丸南東の堀切 |
道路沿いの通路になった堀切 |
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【歴史】 |
前九年の役で源頼義を援護して阿部一族を滅ぼし、奥羽2州の支配者となった清原一族の内紛は源義家の介入により後三年の役に発展した。沼の柵で勝利した清原家衡はより堅固な金沢柵に居城を移して戦ったが、義家・清衡軍の水攻め、兵糧攻めにより1087年11月14日落城した。勝利した清原清衡は後に藤原姓を称し、奥州藤原3代平泉文化の礎となった。この金沢柵は中世にも使われ、長禄2年(1458)南部氏の家臣・金沢右京亮が入り、文明2年(1470)まで居城した。その後、小野寺氏の家臣・金沢権十郎が居城し、後に佐竹の東将監・梶原美濃が城を受け取り、元和8年(1615)に破却された。 |
【参考資料】 |
『日本城郭大系』新人物往来社発行、現地説明板 |
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